〜ニュー・マイルス・ミュージックの功罪〜


  カムバック第1作「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」はとにもかくにもセンセーションを巻き起こした。感動と失望の声が交錯、またまた賛否両論の嵐が吹き荒れた。はたして「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」はいったい何を語ろうとしていたのか。かつてジャズの流れを大きく転換させたマイルスだが、今こそ70年代から81年復帰に至るマイルス・ミュージックの功罪を問う!


ー 人々はマイルスに何を求めたのか ー

 振り返ってみれば、1981年は80年代の始動に相応しいとは言い難いダイナミズムに欠けた平凡な1年ではあったかも知れないが、そうした中にあって、ことマイルスの再起はこの1年最大のトピックスでもあったというばかりでなく、ジャズにおける最も目覚しいイベントの一つでさえあった、といってもおかしくないような気がする。その意味では、ニュース・バリューのあるジャズのどんな出来事も、これに太刀打ちしうるものは何ひとつなかった、といっても過言ではないだろうか。ほかの連中は一体何をしていたのだと言いたくなる位、実りのない1年だったという感慨の方が深い。この時ばかりは、あのウェザー・リポートですら、マイルスの反響を前にして影の薄い存在にならざるを得なかったのだから。

確かに今思えば、あたかも帝王にぬかずく臣下の如く、突然目を醒ましたマイルスに血道をあげるジャズ・ジャーナリズムの子供じみた、あるいはいささか見識を欠いた奔走ぶりは、滑稽でさえあったが、約6年の沈黙を破ったレコードの吹込みから、クール・ジャズ祭出演や鳴物入りで開催された日本公演に至るまでのマイルスの動きとその周辺状況に目をやれば、それもあるいはいたし方なかったのではと思いたくなるほど、当時ジャズ界はスター不在に泣いていた。それはまた同時に、長い空白にもかかわらず、そしてウェザー・レポートのような存在があるにもかかわらず、マイルス信仰が決して死んでいなかったことも明らかにした。少なくともジャズ界がマイルスの復活によって大きな刺激を得たこと、またそれを通して久しぶりに活気に満ちたざわめきを甦らせたということだけは、いささかも否定のしようがない。しかし、マイルスがたった1人の力でジャズ界を救うことができるほど、当時のジャズ界は単純でもなければ、メスを振うのに生易しい状態にあるという訳でもなかった。マイルスが再起したというニュースが伝えられてまもなく、にわかに高まってきたマイルス待望の熱気の中で、こうしたことはむしろ、フュージョンとして喧伝され、大衆に一見もてはやされたように見える音楽が、実はジャズとしてのアイデンティティーを失い、従って創造的な発展が望めないような状態に陥っており、80年代に突入したこの頃にこそ何かが起こらなくてはいけないという、ある種危機感が突如ジャズ界にみなぎりはじめた証拠ではないか、と私が直感したのも決して故なきことではなかったと思う。

 あらゆる世界、あらゆる分野で、この頃ほど英雄の出現が待望されていた時代はなかった。ジャズとしても例外ではなかった。人々がマイルスに何かを求めて殺到したとしても、実は無理もなかったのではないか。病で身を退くまでの過去30年ほどにわたって、マイルスはジャズ界に君臨してきた、まさに不死身のヒーローであり、その間一度も帝王の椅子を譲ったことがないという、史上無二の驚くべき存在だったからだ。それに引き換え、70年代以降、入れかわり立ちかわり現れては人気者となったミュージシャン達は、1人として決して真のヒーローたりえなかった。
彼らはちょっとしたお祭り騒ぎの渦中で持て囃されたというに過ぎない。時代の寵児となったにも関わらず、時代に対して謙虚さを欠く彼らの態度からは、80年代に相応しいクリエイティブな音楽などはとても望めないように思われて仕方がない。当時このことに気がついていたミュージシャンは、多分ごく少数に過ぎなかっただろう。

このように考えてくれば、ある意味で過酷に過ぎるとはいえ、再起したばかりのマイルスに何かを求める多くの熱烈な声が、多くの人々の現状不満やジャズの存亡にかかわる危機感とも重なりあいながら、英雄待望論に発展していくということは充分に考えられることである。見方を変えるなら、マイルス待望論には、創造性や闘争心を欠いたジャズの現状に対するやり場のない憤懣、70年代の錯綜的状況を総点検し、これを含めた過去を想像力豊かに統括しながら創造的な発展へと導いていくのが80年代の作業だとする認識、あるいはジャズに対する根本的な危機感、さらにはマイルスへの熱烈なラブ・コール、それをひっくるめた期待等が、一緒になって絡みあっているということである。
 マイルスの第一線復帰にからむさまざまな情報がもたらしたにぎにぎしい熱狂と興奮は、ジャーナリズムの煽動戦術にのせられた面が多分にあったとはいえ、それを割り引いてもなお、マイルスに何かを求め、期待する声が想像以上に多かった事実を物語るものだろうが、期待する声は実はさまざまであり、その奥はきわめて複雑だったということになる。


ー カムバック第1作は何を語りかけたか ー

 マイルスの再起第1作に対する一般の評価、及び日本公演についての反応がまちまちだったのは当然であり、さして驚くにはあたらない。ある人は“さすがマイルス!”と驚喜し、またある人はいくばくかの感傷をもって“グッバイ・マイルス!”を告げた。マイルスを支持する人たちの中には、マイルスの存在の大きさ、すなわち演奏の中心にマイルスがいるというだけで音楽が生まれ変わったようになることを説き、従ってマイルスの偉大さが浮かび上ってくるのだという人がいる。私はそれを否定しない。むしろある意味でまったくその通りだと思う。しかしそれは演奏家としてのマイルス像の一端であり、彼の音楽そのものを語っている訳ではない。新作「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」でも、彼の大きな存在感を十分に伺うことができたし、来日ステージでもそうだった。新作のアルバムについていえば、私は一方で驚喜しながら、他方で失望感を禁じえなかった。10月4日、東京での来日ステージにおいても、私の態度は基本的には新作の評価と軌を一にするものだった。

その一方で、ふと思うとマイルスがいる。それだけで十分なのだ、と。マイルスは多分、主のいない帝王の椅子に再び戻ったのだ。たとえマイルスが以後たいした音楽をしないとしても、マイルスがそこにいるというだけで、マイルスを円心軸にしたジャズは再び勢いよく回転するような気がした。
 だが、その前に、ここで明らかにしておかなければならない事がある。マイルスの再起に心から拍手を送りながら、彼の音楽の一体何に失望せざるを得なかったかについて、明らかにする必要がある。6年の沈黙を破って彼が世に問うたあの再起第1作に、一方で喜びを感じつつも、なぜその一方で留保をつけなければならなかったのか・・・。

 簡単にいえば、70年代音楽、というよりいわゆるフュージョンとかクロスオーバーの名で大衆の嗜好品となった音楽における、マイルス・ミュージックの功罪についてである。これらの音楽にとって、マイルスが60年代の終わり頃にいくつかのアルバムで示唆した方向性、方法論、サウンド等が、いかに大きなよりどころとなったかは、もはや言い尽くされている。例えば70年代音楽の方向を決定づけたアルバムとして、誰もが真っ先に挙げるのは「ビッチェズ・ブリュー」であるが、70年代以降から今日にかけてジャズあるいはフュージョン界を主導してきたミュージシャンの大半が、この「ビッチェズ・ブリュー」と「イン・ア・サイレント・ウェイ」というマイルスの示唆深い両アルバムのセッションに参加していることを考えれば、マイルス・デイヴィスこそは疑いもなく、70年代以降におけるジャズの発火点であったことが容易に理解される。すなわち、マイルスは発火点で、そこから生まれた2枚のアルバムこそは、まさに直接的な起爆剤にほかならなかったということになる。

ここで2枚のアルバムを同列においたのには訳がある。というのは、70年代ジャズの最大の流れを生み出した作品という時、「ビッチェズ・ブリュー」を挙げるのはもはや今日では常識になってしまったが、当節のジャズにおけるメソッドと演奏スタイルを一つの視座にして考えるなら、むしろ「イン・ア・サイレント・ウェイ」の方がより示唆に富んだアルバムではないか、と思われるからである。最も作品としてどちらかが上かという議論は別として、少なくとも《マイルス=70(80)年代ジャズ》の相関性を考えるならば、両アルバムを同列において論じるべきだというのが、私の率直な持論です。


ー 「BITCHES BREW」と「IN A SILENT WAY」の可能性と問題 ー

 「ビッチェズ・ブリュー」の素晴らしい点は、革新的なことが単なる新しい要素や実験的試みという段階でとどまっておらず、様式的にもサウンド的にもバランスがとれており、マイルスの単純化作業を象徴するように無駄や饒舌が見られないばかりか、全てのものが居心地よくまざりあって、しかもなお一つのすっきりした新しい統合形として提出されているということだ。これからのジャズはこういう風にして演奏するんだよ、とあたかもマイルスがほのめかしているように、70年代ジャズのコンセプション、70年代ジャズのサウンドや演奏様式等のあり方を一つの具体的な形で示唆した、まさにまぎれもないサンプルになっている。

しかし、例をひとつ引き合いに出せば、マイルスとウエイン・ショーターのユニゾンによる催眠的なメロディック・ラインが、際限なく繰り返されてはたゆとうように浮遊し、消えたと思うとまた現われ、夢幼的な永続性を導き出していく「ネフェルティティ」(1967年)のような例を説明するには、「ビッチェズ・ブリュー」はあまりにも完成された演奏作品といわなければならない。「ビッチェズ・ブリュー」の場合、マイルスが過去2度にわたってその後のモダン・ジャズを支配する革新を果たした2枚の先駆的アルバム、49年の「クールの誕生」及び59年の「カインド・オブ・ブルー」とは違って、さらに発展していく可能性をもった芽は決して一つではなく、むしろさまざまな局面を秘めていたと思う。そこには物事を決して完結させないマイルス流のやり方が示されていて興味深い。だが、うっかりすると発展させる緒がたった一つしかないと思えるほど、すなわち音楽を発展させるレールがこのアルバムによってはっきりしかれたと思えるほどに、このアルバムの演奏には完成された美しさ、トータル・サウンドの魅惑的な輝きがある。

 この時代のマイルスのリズム概念はちょうどインド音楽のそれに似ていて、いわば小節線がない。解りやすくいえば、4/4拍子の概念から離れたリズム・コンセプトで成り立っている。周期のない1拍単位の進行、あるいはロック・リズムに基づいた半拍単位の進行がリズムの流れになり、リズム概念の中枢におかれて全体のパルスを生み出すもとになっている。その考え方、及び形が、実はあの「ネフェルティティ」のメロディック・ラインに活用され、リズムと一体になって催眠効果をもたらしているということに、私は後に気が付いた。

こうしたマイルスの一連の試みと「ビッチェズ・ブリュー」の間に介在するアルバムが、すなわち「イン・ア・サイレント・ウェイ」なのである。ここではサウンド全体が絶えずたゆとうように流れ、さまざまな形でアクセントをつけることによって、無限といいたいほどのサウンド変化、テクスチャーやカラーの変化が達成されている。そこに、コードではなくスケールを基盤とした、クロマティックに変化するマイルスのソロが加わると、サウンドが妖しく揺れ動くかのように、まるで生き物みたいに忍び寄ってくる。従来の4ビート・ジャズにあった区切りや句読点はどこにもない。これはトータル・サウンドを、他の概念(ロック・リズム、エレクトロニクス、インド音楽、ブラジル音楽における打楽器用法等々)を用いてどのように新しく生み出すかという、より具体的な提示であった。「ビッチェズ・ブリュー」のように完成されてはいないが、ここにはスリリングな新しい可能性と楽しい未来がある。未完成から完成への収斂の凝縮された姿を、私はこの両アルバムに見る思いがする。今日のジャズ/フュージョンを語るとき、「ビッチェズ・ブリュー」も無論だが、「イン・ア・サイレント・ウェイ」をはずすわけにはいかないのは、実はこういう意味なのです。


ー 解答を用意するのがマイルスの運命 ー

 従って、問題は決して単純ではない。70年代以降のジャズ/フュージョンは確かにマイルスを発火点にしたが、後続のミュージシャン達が2枚のアルバムに象徴されるマイルス・ミュージックのどの局面を出発点にしたかによって、それぞれに異なった様相をあらわすに至ったからである。「ビッチェズ・ブリュー」で説明するなら、このアルバムにおける完成された美がもっていた様々な面は、個別に選択され、その多くはマイルスの意図とは無関係に展開されていった、という事。それが混淆しあい、錯綜しあったところに、70年代フュージョンの混乱と、マイルスが決して失わなかった“呪術性”を欠如させたような不毛の状態とを生む素因があった、といっていいかも知れない。

それでもマイルスがまだ健在であるうちはよかった。たとえマイルスの表面だけコピーしてその本質から離れてしまった音楽に彼らがうつつを抜かすようなことがあっても、マイルスの勢力圏内にあったミュージシャン達は、マイルスという柱を中心に、直接にマイルス体験をはたして大きな影響を受けた70年代ジャズ/フュージョンの一群の推進者達のリーダーシップのもとに、ある意味で心理的スクラムを組んでいたといってもよく、彼らはいつでもマイルスのもとに還る用意ができていたからだ。マイルスの磁石がジャズ/フュージョン界全体に及んでいた、といってもいい。

ところが、マイルスが病に倒れて活動を休止したとたん、状勢に大きな変化が起こった。日本に3度目の来日を果たした直後の事で、ジャズ/フュージョンの急激な膨張化、あるいは肥大化に拍車をかけたマイルスの活動停止は、彼が斯界の支柱的存在だっただけに、概念の大きな混乱をもたらした。ジャズ/フュージョンにおけるマイルスの功罪を云々しなければならない、その決定的な岐路を彼の活動停止の瞬間に見ることは、それゆえ決して誤りとはならないはずである。1975年をマイルスの功罪の38度線と私が考えるのも、実はそういう理由に基づいての事だ。私がこのブログであえて書いているのも、マイルスの功の部分はしばしば語られ(書かれ)、折につけ引き合いに出されて、もはや歴史の定説にすらなりつつあるのに反して、罪の部分は全くといっていいくらい語られた(書かれた)ことがなかったにほかならない。帝王に対する遠慮があったのか、あるいはそれほどまでにマイルスは絶対的存在だったのか。無論マイルスがジャズの発展にあって格別の存在であることは論をまたないし、私としてもマイルス信仰が全くないというわけではない。けれども、マイルスはキリストでも釈迦でもない。マイルスの罪は罪として認めた上で、ジャズ/フュージョンの混乱とそれがどう関わっているかを明らかにする必要があるのではないかと思う。

 例えばフュージョン大全盛だった80年代の状況を見てみればよい。この音楽はもともとジャズを核としながらも、他の主だったポップ・ミュージックを抱きこんで、見た目にはおいしそうだが中身の薄い、単なるバックグラウンド・ミュージック、イージー・リスニング・ミュージックとしかいえない音楽に化してしまった。もちろん全部がそうだというわけではなく、全般的な状況をさしていっているわけだが、こうした状況に拍車がかけられたのは70年代半ば前後、とりわけマイルスの活動停止を境にして以降のことであったという事実を考えれば、マイルスの責任は決して軽くないというのが私の見方である。この混乱状況をつくりだした張本人がマイルスだというのは酷に過ぎるが、少なくとも彼が身を隠した75年以降、彼を中心とした緊張関係が崩れだし、未完成の雑多な音楽がそのとたんマイルスの手を離れて底の浅いまま一人歩きをしてしまった裏に、マイルスの活動停止があったことは認めざるをえない。というのは、そもそもマイルスがこうしたジャズ状況を導き出した発火点だった、という厳粛な認識があるからだ。最大の罪は、「ビッチェズ・ブリュー」の成果をいったん反古にして新しい展開に踏み出したマイルスが、仕事を途中にしたままジャズ界から姿を消し、5年余の空白を招いてしまったことだ。マイルスにとって不運だったということになろうが、それによって、一つは自らがつくった緊張関係を崩壊させる結果を招いてしまった事。もう一つは自らの作業を挫折させた事。この二点を指摘する事ができる。マイルス主導のジャズ/フュージョン全体における発展が未完のまま一頓挫したというばかりでなく、流れが拡散してしまい、しかも才能のないスターが担ぎ出されて、商業主義に支配された安易な状況がつくりだされてしまった。この状況はコルトレーンの死直後のそれとも似通っている。

八方美人的な広がりと愛想のよさで急速に大衆の消耗嗜好品となったフュージョン・ミュージックに対して、マイルスは大きな責任をもっていると私が常々考えてきたのも、その偉大な創造性と大きな影響力にもかかわらず、マイルスには功は無論として罪もあるのだという認識があったからに他ならない。それについてマイルスを責めるつもりはない。確かにそれはやむを得ぬ事情によるものだったからだ。但し、長い沈黙を破る時には、こうした様々な事項に対しての答をマイルスは用意する義務がある、というのが私の考え方だった。もしそれが80年代の安易な状況に対する的確な評価になっているのと同時に、ジャズ/フュージョンのあり方や可能性を示唆する内容になっていれば、マイルスはある意味で責任を果たしたことになるだろう。マイルスほどの男なら、きっとそれを明らかにしてくれるはずだ。一抹の不安はあったが、それはささやかな、しかし大きな意味のある期待でもあった。そんな中でマイルスは再起した。

その影響力については冒頭で多少ふれているし、レコード評ではないこのブログの中で「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」の出来を云々する理由もない。問題は、このアルバムが厳しい解答になっていたかどうかだ。結論から言えば、マイルスを中心とした緊張関係は少しずつ恢復するだろうが、それはあくまでも心理的なものであって、音楽的に、あるいは方法論的に、このアルバムが「ビッチェズ・ブリュー」や「イン・ア・サイレント・ウェイ」のような重さや意味の深さをもっているかとなると、いささか首を捻らざるをえない。あの両アルバムにあったさまざまな局面から、マイルスはリズムとエレクトロニクスの問題を選んで、それを軸に新しい探究に踏み出したはずであったが、それもこの作品では6年の空白後の解答というにはやや中途半端なレベルで終ったままになっている。現実の問題として、そのハッピー・サウンドにもかかわらず、やや焦点を欠いていたという点だけは指摘しておかなければならない。一方にウェザー・レポートのような優れた例があるかと思えば、その一方にはファッション化したサウンドの、殆ど見分けもつかないほどに類型化された羅列もあり、流行るのも早ければ廃れるのも早いこうした多様なサウンドの華麗な混沌を目の前にして、そういう状況やフュージョン音楽自身に対する優れた批評文となるような、あわせて次代に対する大きな示唆となるべき解答を、マイルスはできるだけ早く整えなければならなかった。それは、帝王マイルス・デイヴィスに与えられた過酷な運命ではなかったろうか。

ー完ー