〜常にジャズの最先端を創り続けた男〜 |

 「俺の音楽をジャズと呼ぶな!」
彼は力強く、そう言い放ったことがあるという。
トランペット奏者にして稀代のサウンド・クリエーター、マイルス・デイヴィス
常に前進と変遷を続けた、文字通りのカリスマ。
従来のジャズの先を目指した彼の動きはまた、ジャズの可能性を開拓し、枠を広げることにもつながった。
「ジャズ界の帝王」、「ジャズ界のピカソ」、「ソーラサー(魔術師)」・・・
さまざまなフレーズで形容されたマイルス。その魔力に、今、あらためて迫る。

マイルス・デイヴィスに関して、様々な書籍・HP・ブログ等の書やコメントが既に山のようにあるが、ここでは私なりに違った角度から切り込んで迫ってみたい!


ー 今年の9月28日で18回目の命日を迎える、カリスマ・トランペッターの生涯 ー

マイルス・デイヴィス(本名マイルス・デューイ・デイヴィス3世)は1926年5月26日、イリノイ州アルトンに生まれた。姉はピアノを習い、母はヴァイオリンを弾いた。父親は歯科医で広大な土地を持っていたというから、みごとに「上流」なアフリカ系アメリカ人一家であった、といっていいだろう。幼少の頃はフットボール、ボクシング、水泳、野球に熱中したが、やがてラジオから流れるジャズに夢中になった。トランペットを吹き始めたのは13歳のとき。2年後にはプロ入りを果たした。そして44年8月、ジュリアード音楽院で学ぶという目的(口実)でニューヨークに進出。しかし学校へはほとんど行かず、ジャズ漬けの日々を送ることになる。

 当時のマイルスを最も魅了したひとりがサックス奏者のチャーリー・パーカー。その圧倒的なスピード感と鋼のような音色で繰り広げられる即興絵巻は、まさしくジャズの先端を行くものであった。マイルスは神出鬼没のパーカーを追い求めては学業をそっちのけでマンハッタンをうろつき回り、45年秋、遂に彼のクインテット(5人編成のバンド)に参加する幸運に恵まれる。マイルスのゆったりとした、清水がゆったりと流れていくかのようなトランペット・プレイはパーカーの“刹那”と見事なコントラストを描いた。パーカーもそこを狙ってマイルスと組んだのかもしれないが、一方でこのサックス奏者はアルコール、ドラッグ、女性に耽溺しており、常にお金を必要とする状態だったとも伝えられ、あげくのはてにはマイルスのアパートに転がり込んで共同生活まで送っている。地方都市から来たお坊ちゃんのポケットマネーがいかほどパーカーの懐に消えたかは定かではないけれど、若きマイルスにとって、それは授業料にも等しいものであったろう。パーカーとともに演奏することでマイルスのプレイは表現の幅を広げ、この“ユニークなサウンドを持った若手トランペット奏者”の存在は急速にジャズ界に知れ渡り始めた。


ー 月と太陽のように巡る「ホット」と「クール」 ー

48年、マイルスはパーカーの許を離れる。彼の新天地は、よりアレンジ(編曲)を重視したサウンドだった。編曲家ギル・エヴァンスとの出会いも、そんなマイルスの意向に拍車をかけたに違いない。ノネット(9人編成)による静謐にして野心的なサウンドの数々は49〜50年に録音された『クールの誕生』というアルバムで聴くことができる。しかし、マイルスは決して“ソフト&スタティック”路線のみに心を砕いていたわけではなかった。49年春、フランスで録音した『パリ・フェスティヴァル・インターナショナル』では、まるで即興の化身がとりついたような、燃え上がらんばかりのトランペット・プレイで圧倒する。クールとホット。これは月と太陽のように、絶えずマイルスの中をめぐりめぐっている。余談だが、このパリ滞在中にはジュリエット・グレコとのロマンスもあった。「サンジェルマン・デ・プレのミューズ」と呼ばれた美貌の若手シンガーと、限りない未来を持ったジャズ・トランペット奏者はたちまち恋に落ちた。マイルスがどれほどグレコに恋焦がれていたかは『マイルス・デイヴィス自叙伝』を読めば、たちどころにわかる。

グレコへの思いを胸にニューヨークに戻ったマイルスを待ちかまえていたのはドラッグの泥沼であった。が、マイルスは意志のひとでもある。54年にはジャズ界に復帰し、『ウォーキン』『バグス・グルーヴ』を残した。又56年夏には「ニューポート・ジャズ祭」に登場。この時のパフォーマンスが喝采を博し、同年秋、全米最大のレコード会社であるコロムビアと契約を結んだ。20代の黒人ジャズ・ミュージシャンとしては型破りの快挙である。マイルスのカリスマ性、ポップ性が、すでにこの時点で会社側にはお見通しだったのだろうか。

 販路に恵まれた大会社からレコードが出るということはすなわち、より多くの聴き手に自分の音を届けられるということをも意味する。マイルスのサウンドは各国のリスナーやファンの心を動かした。57年にはルイ・マル監督のサスペンス映画『死刑台のエレベーター』のサウンドトラックを担当、孤独を絵に描いたようなトランペットの音色で物語をドラマティックに彩った。


ー マイルスの歩んだ後に新しい「ジャズの道」ができた ー

この時期、マイルスは「モード」(旋法)を基にした音作りを中心に考えていた。恩師パーカーの取り組んでいた“ビ・パップ”がめまぐるしい「コード」(和音)のながれのうえでいかに自己表現するかに集中した障害物競走だとすれば、モード・ジャズに与えられているのはただ、だだっぴろい空間だけ。そこで跳ぶのも走るのも駆け回るのも寝るのも自由というわけだ。しかしそこはマイルス、常に“制御の目”を忘れない。59年の『カインド・オブ・ブルー』は、開放感と、尋常ではない緊張感がせめぎあう奥深い1枚。マイルスは無論、こんなに神妙かつ大胆なビル・エヴァンス(p)やジョン・コルトレーン(ts)も、ほかの作品では聞くことができない。

盟友ギル・エヴァンスとのコラボレーションも充実の一途を辿っている。59年の『スケッチ・オブ・スペイン』ではクラシック作曲家のロドリーゴがギター用に書いた「アランフェス協奏曲」を、まるでブルースのように吹奏。62年の『クワイエット・ナイツ』では、話題になりはじめたばかりのボサ・ノヴァにいち早く取り組んでいる。このあたりのマイルスのアルバム・ジャケットには、共通したロゴ(トレードマーク)が使われている。トランペットを吹くマイルスの姿を横から捉え、簡略化した図柄。いまではロックはおろか、アイドル歌手の売出しにも不可欠となった感があるロゴだが、それを効果的に活用したレコード会社及び音楽家コロムビアとマイルスが嚆矢かもしれない。

 新世代のミュージシャンと組むことで更なる活性化を図ろうとしたのか、63年になるとハービー・ハンコック(p)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds)がバンドに参加。64年秋からはウェイン・ショーター(sax)が参加。彼らの自作曲を積極的に取り上げながら、マイルス・ミュージックは更に激しく前進する。リズム・セクションが自在に動き回るその上で、管楽器がニュアンスを変えたフレーズを何度も繰り返して、聴き手を一種の睡眠状態にいざなう67年録音『ネフェルティティ』は、“メロディ=主体、リズム=伴奏”という、それまでのジャズにあった暗黙の概念を覆す1曲であったと断言できる。

新世代のミュージシャンと組むことで更なる活性化を図ろうとしたのか、63年になるとハービー・ハンコック(p)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds)がバンドに参加。64年秋からはウェイン・ショーター(sax)が参加。彼らの自作曲を積極的に取り上げながら、マイルス・ミュージックは更に激しく前進する。リズム・セクションが自在に動き回るその上で、管楽器がニュアンスを変えたフレーズを何度も繰り返して、聴き手を一種の睡眠状態にいざなう67年録音『ネフェルティティ』は、“メロディ=主体、リズム=伴奏”という、それまでのジャズにあった暗黙の概念を覆す1曲であったと断言できる。

  アコーステック・ジャズの行きつく先が、マイルスには見えてしまったのだろうか。外に目を移せばロックやソウル・ミュージックがたまらなくエキサイティングに輝いていた。ビートルズが、ジミ・ヘンドリックスが、ジェームス・ブラウンが、重量級の音で若者を煽っていた。かねてから、より多くのリスナーに自分の世界を届けたいと思っていたマイルスが、この動向に無関心でいられるわけがない。いくらジャズ界の大物であっても、彼の作品が社会現象視されることは一度もなかった。マイルスはバンド編成にロックやソウルで使われるような、エレクトリック楽器を徐々に取り入れ始めた。しかし演奏を甘口にも売れ線にすることなく、巷のヒット曲をカヴァーすることもなかったところに強いプライドが感じられる。

サウンドの“電化”を受けて1曲あたりの時間は長大化し、時にプロデューサーのテオ・マセロが演奏にさまざまな編集を加えた。69年の『イン・ア・サイレント・ウェイ』と『ビッチェズ・ブリュー』は、初期エレクトリック・マイルスが持つ静と動を伝える甲乙つけがたい傑作。70年にはキース・ジャレットチック・コリアの電子キーボードを加えたバンドでワイト島のロック・フェスティヴァルや、“ロックの殿堂”と呼ばれたライブ・ハウス「フィルモア」に出演。72年の『オン・ザ・コーナー』では、タブラなどインドの楽器をも編成に加えながら、電気操作を加えたトランペットを高らかに響かせた。


ー 「伝説の男」,奇跡の復活 ウイ・ウォント・マイルス! ー

 75年9月、セントラル・パークのコンサートを最後にマイルスは活動を休止する。その間のことは『自叙伝』にも触れられているが、どうやら世捨て人同然の毎日だったようだ。しかし音楽の神が彼を放っておくわけがない。81年、マイルスはついに復活。10月には約6年ぶりに来日し、感動的なステージを披露している。

 カムバック以降の彼は「伝説の男」「奇跡の男」としてのイメージを愛でつつ音楽を続けていた、と書くと的外れだろうか・・・
この件については後に改めて書くことにする。

多くの人にリスペクトされ、関心を呼び、コンサート・ホールやスタジアムに詰めかけた観衆の視線を一身に集めるスター(鮮やかこのうえないファッションに身を包んだ)は、間違いなく時代が求めたヒーローであった、と私は当時のライブに足を運んだ回想やアルバムに触れるたびに思う。84年にはテオ・マセロとの四半世紀にわたる連携に終止符を打った。このあたりからシンディ・ローパーマイケル・ジャクソンの持ち歌がライブの定番レパートリーとなり、テレビや映画に出演することも増えた。マイルスとファンの距離が、ぐっと近くなった。

 91年9月28日、サンタモニカの病院でマイルスは歩みを止めた。最後のスタジオ・アルバムは、ラップを大きくフィーチャーした『ドゥー・バップ』。彼は最後まで“いま”に賭けていた。

ー完ー