マイルスの“ワースト5アルバム”

 日本ではマイルス・デイヴィスブルーノート・レコードが神格化されていて、それに関する本や雑誌が次々に発売されるが、一部の評論家を除きジャーナリストは礼賛一辺倒で本質や真実が見失われている処がある様に思う。批判的記事を余り見ないのは何故なのか?マイルス批判もあってしかるべきではないかと思う。そこで私なりにこのブログでもあえて批判的な事も書いた。(こういったズバリ切り込んだ辛口の評論は希だろう!)ここに彼のワースト5のアルバムを短評交えて挙げてみたい。何故こんなリストを作ったかといえば、マイルス程ずば抜けて凄い人の音楽はモーツァルトと同じで、聴けば誰にでも直ぐ解るジャズであり、本来解説不要の音楽といっても良いからだ。
ちなみにベスト15は以前に解説入りで紹介済み。


● 『カーネギー・ホールのマイルス・デイヴィス
  寄せ集めで、中途半端であり、印象も稀薄。

● 『クワイエット・ナイツ』
  ギル・エヴァンス楽団との共演でブラジルをテーマにした曲とカルテットの1曲を加えているが、中途半端な作品に思える。

● 『ドゥー・バップ』
  ヒップ・ホップやラップへの共感?何もマイルスがこんな事までやらなくてもと思う。

● 『アット・ラスト!マイルス&ライトハウス・オールスターズ』
  1953年9月の録音で、マイルス自身調子が悪かったせいもあり、余り冴えないウエスト・コースト・オールスターズとの共演。チェット・ベイカーの演奏が1曲入っているのもアンバランス。マイルスとチェットが共演していたら面白かったかも・・・


● 『ライブ・アット・モントルー
  亡くなる2ヶ月前の1991年7月のライブ録音。今まで過去を振り返る事の無かったマイルスが遂に昔の作品を再演した汚点を残す演奏。さすがのマイルスもつい弱気になり昔を振り返ってしまったのだろう。とても悲しく、淋しい演奏。やはり人間、体調を悪くすると挑戦意欲を失ってしまい、弱気になるものだ。それが過去の演奏を再現する演奏に向かわせたといえる作品

マイルス・デイヴィス九重奏団の重要性

クールには二つの意味があり、一つは“涼しい”とか“冷たい”といった本来の意味と、ジャズやビートの世界の俗語としての“いかす”の意味がある。しかしこれは二つの意味があるというより、両者は互いに関連していて“いかす”もやはり本来の意味から導き出されてきたものと言える。何事においてもカッカするよりは冷静で涼しい顔をしている方がかっこいいと言うところから、クールにいかすと言う俗語的意味が加わった。クール・ジャズのクールはもっぱら本来の意味、冷静、涼しい、冷たいと言う意味で用いられている。

マイルスがリーダーとなってキャピトルに1949年から50年に録音した一連の演奏は『バース・オブ・ザ・クール/クールの誕生』と呼ばれた。
  しかし、最初から“クールの誕生”と呼ばれたわけではなく、50年代後半に30センチLP化された時に、歴史的考察によって“クールの誕生”と初めて名付けられたのであり、SPで出た時は、マイルス・デイヴィス・バンドとかノネット(九重奏団)と呼んでいたに過ぎない。
  このマイルス九重奏団は既に48年にニューヨークの“ロイヤル・ルースト”に出演していて、そのラジオ放送がオゾン・レーベル等から発売された事がある。メンバーはキャピトル盤とは少し違うが、フレンチ・ホーンやチューバも加えられており、リー・コリッツ、ジェリー・マリガンマックス・ローチジョン・ルイスらの顔が見える黒人と白人の混合バンドであり、ギル・エヴァンスジョン・ルイスジェリー・マリガンが編曲しており、キャピトル・セッションの原型を「ゴッド・チャイルド」、「ムーン・ドリームス」、「ブドウ」等で聴く事が出来る。
  このマイルス九重奏団のアイデアギル・エヴァンス宅に集ってマイルス以下の参加メンバー達が練り上げたものと言われる。最初、チャーリー・パーカーをリーダーにしようという計画もあったようだが、途中でマイルスをリーダーに立てる事になった。このキャピトル・セッションでの最高傑作はマイルスが作曲し、ギル・エヴァンスが編曲した「パブリシティ」で、旋律も美しく、覚えやすいし、ギルの中音域と厚味を生かしたカラフルで、抑制の利いたサウンドはクールというよりも、温か味のある響きを持っていて、こよなくロマンティックでもある。ギルは他に「ムーン・ドリームズ」や「ダーン・ザット・ドリーム」を編曲している。またジェリー・マリガン作・編曲の「ジェルー」や「ロッカー」も聴き逃せない。マリガンは他に「ゴッドチャイルド」、「ブドウ」を編曲しており、ギルと共にマイルス九重奏団のメイン・アレンジャーだった事が分かる。なお「ムーヴ」はジョン・ルイスの編曲であり、「イスラエル」はユダヤ人でトランペッターだったジャン・キャリシの作・編曲だった。
  このマイルス九重奏団はマリガンがメイン・アレンジャーの一人で、演奏に加わっていた事でも分かる様に、クール・サウンドの誕生だっただけではなく、マリガンの編曲等にはウェスト・コースト・ジャズの原型を見出す事も出来る。
  ビ・バップがホットなアドリブ中心の演奏だったのに対し、マイルス九重奏団はアレンジと演奏に白人のセンスとコンセプションとの融合を計り、冷静かつ優雅でハーモニー重視のサウンドを実現したところに、独創性とユニークさがあった。そこに一種のクール・サウンドが感じられた事も確かだ。またマイルスのトランペットもこの時期から52年頃迄は、静かでよく考えられた冷静さを感じさせるフレーズを吹いていた。
 しかし、このクール・ジャズは以外に短期で終わり、52年以降にはジェリー・マリガンチェット・ベイカー、ショーティ・ロジャーズ、シェリー・マン、アート・ペッパーを中心にしたウェスト・コースト・ジャズにその一部は吸収されていった。しかし西海岸派ジャズは東部のクール・ジャズとは異なり、カリフォルニアの明るい陽光を受け、より陽気なジャズとして大衆的な支持も受けることになった。


ー ハードバップを創造したミュージシャン ー

ハード・バップの夜明けを示すレコーディングを挙げると、『バードランドの夜/アート・ブレーキー』『ウォーキン/マイルス・デイヴィス』『バグス・グルーヴ/マイルス・デイヴィス』で、何れも54年の録音。
  マイルスの『ウォーキン』『バグス・グルーヴ』はハードバップ前夜の重要な演奏だが、前者はリチャード・カーペンター作の「ウォーキン」のファンキーなブルース・プレイがハード・バップの方向を示した演奏であり、ファンクの伝道師ホレス・シルヴァーの参加も注目される。

  『バグス・グルーヴ』はハード・バップ・プレイヤーが大集合していて、ミルト・ジャクソン作のタイトル曲はファンキーなハード・バップの聖典とも言うべきブルース。演奏にはミルトの他セロニアス・モンクソニー・ロリンズホレス・シルヴァーといったハード・バップの中心人物が加わっている。
  ロリンズはここで「エアジン」「オレオ」といった名曲として定着する曲を演奏しているが、ロリンズのユーモアと余裕のある大らかで堂々とした黒人らしさを胸張って主張した吹奏こそハード・バップの典型と言える。
  マイルス・デイヴィスはハード・バップに深く関わったプレイヤーだが、彼はバップの洗礼を受けたトランペッターでもあった。バップの創始者チャーリー・パーカーに気に入られ、メンバーとしてプレイしたが、マイルスがリーダーとなった演奏を聴くと、50年代初めにブルーノートやプレステッジに吹き込んだ演奏を聴いても、バップ特有のアブストラクトなテーマやバップ・アクセントの演奏は余り見られない。マイルスはセントルイス育ちで、この都市特有のナンプレスで綺麗なフレーズをメロディックに吹くのが好みであり、初めからハード・バップに通ずる道を歩んでいた男だし、そしてより自由でメロディックなアドリブを求めるモード手法に向かったのも必然の結果だと言える。
  マイルスは55年にニュー・クインテットを結成するが、最初予定したテナーのソニー・ロリンズは麻薬から立ち直るためにシカゴで半引退生活を送っていたので、いろいろ選択を迷った末、フィリー・ジョー・ジョーンズが推薦した殆ど無名のジョン・コルトレーンを加えた。彼は“恐れる若きテナー”と呼ばれた様に、つきつめた様な表情と鋭いアドリブで、これまでのテナーとは異質なプレイであった。そのためファンからは随分と非難されていた様だが、マイルスは彼の才能を見抜いて使い続け、やがてコルトレーンソニー・ロリンズのライバルにまで成長していった。このマイルス・コンボのレッド・ガーランド(p)、ポール・チェンバース(b)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)がまた最高で、ハード・バップのコアの様な存在となった。特にフィリーのマックス・ローチのハード・バップの基本の様なドラミングを草書体にしたかの様な自由で、ワイルドで、スポンテーニアスに躍動するドラミングはマイルスの自由な発想のプレイにぴったりである。マイルスの一連のアルバム『ラウンド・ミッドナイト』やプレスティッジのマラソン・セッションによる『クッキン』、『リラクシン』、『ワーキン』、『スティーミン』等はハード・バップの典型的演奏だった。


ー マイルス・デイヴィスとモード手法 ー

  モード手法を用いたジャズの始まりは、マイルス・デイヴィスセクステットが1958年4月2,3日に録音した『マイルストーンズ』に始まるというのが定説となっている。この年からマイルスはキャノンボール・アダレイ(as)を加えた六重奏団で演奏する様になったが、このアルバムの中で演奏されているマイルス作曲の「マイルストーンズ」にモード手法がみられる。マイルスのモード演奏がはっきりと聴き取れるのはこの曲だが、マイルスが既にプレステッジに連結録音した一連のクインテットの演奏の中にもその萌芽を見出す事が出来る。モード手法はコード進行の転回に基づくアドリブからスケールによるアドリブへの転換によって、よりメロディックなプレイをするのが目的だったが、彼は以前から吹流しの様なメロディックなプレイを好んだトランペッターであり、モード手法への転換は彼に取っては必然の道だったとも言える。出だしがシンプルなコードで始まり、コルトレーンが演奏した「ミスターPC」の原曲とも言うべきマイルスのオリジナル「ブルース・バイ・ファイヴ」や同じくマイルス作曲の「グリーン・ヘイズ」を聴くと、これらブルースでのソロが極めてメロディックである事に気付く。又一方で彼は旋律の美しいポップ・チューン「イフ・アイ・ワー・ア・ベル」、「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」、「イット・グッド・ハプン・トゥ・ユー」、「枯葉」等を好んで演奏したが、これもメロディックな演奏を求めた結果だったとみる事が出来る。従ってマイルスは必然的にモード手法への道を歩んでいた事になるが、彼のモード志向はあくまでフィーリングや感覚、好みに基づくものであり、理論から生み出したものではなかったと思える。一方、理論的な面からモード手法を生み出したのはギル・エヴァンスジョージ・ラッセルといった作、編曲者であった。

 そして、情緒的なマイルス・モードとギル・エヴァンスの理論的なモード技法が出会う事によって、見事な結果をみせたのが二人の合作『マイルス・アヘッド』であり『スケッチ・オブ・スペイン』である。特に『スケッチ・オブ・スペイン』の天国の様でもあり、夢の国に誘われたかの様な絶妙なモード・ジャズの世界は、奇跡としか言いようのない美しさを湛えている。そして、マイルスがポップ曲以外でみせてきたブルース・フィーリングとブルース志向が、この上なく洗練された形で実ったのが『スケッチ・オブ・スペイン』である。
  マイルスはギル・エヴァンスとのコラボレーションで、58年に『ボギーとべス』を吹き込んだ時、「スタジオでギルがコードがたった一つしか書かれていない譜面を渡されてびっくりした」と語っていたが、この件からもマイルスはモードをフィーリング的には理解し、又演奏の上では行って来ていたが、それを理論付けたのはギル・エヴァンスだった事が分かる。

  マイルスは続く59年の自己セクステットによる59年3月と4月録音『カインド・オブ・ブルー』では、1曲を除いてモード手法に理解を示すピアニスト、ビル・エヴァンスを起用して、マイルスの自作のモード曲「ソー・ホワット」、「フレディ・フリー・ローダー」、「フラメンコ・スケッチ」、「オール・ブルース」といった曲を演奏しているが、「ソー・ホワット」と「オール・ブルース」は後に多くのプレイヤーが演奏するモードのスタンダード・ナンバーとなった。特にシンプルなコードを用いた「ソー・ホワット」、8分の6拍子によるモード・ブルース「オール・ブルース」が注目される。後者ではブルースとモード手法の深い関係が示される。
  マイルス自身、メンバー達がモード路線をひた走ったのに対し、ギルとの共演以降、あまり熱心にモード手法を追及する事がなかった。65年以降、メンバーがウェイン・ショーター(ts)、ハービー・ハンコック(p)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムズ(ds)という最高のメンバーで固まると、彼はメンバーのショーターやハービー等が作、編曲したモード・ナンバーをアルバム『マイルス・スマイルズ』のタイトルが示す様に、微笑んでこれを楽しそうに演奏し、自分では余りオリジナルも書かず、彼等若者の成功に乗っかっていった。彼はあくまでフィーリング派であり、理論的にモード手法を追求する事はなかった。


ー 新主流派とモード・ジャズ ー

 モード手法を用いながら、ハード・バップにも負けない力強い演奏を展開した60年代の若いジャズメンの一群を新主流派(ニュー・メインストリーマー)と呼ぶことがある。
  マイルス・クインテットコルトレーンが独立した後、後任のテナーに悩まされた。苦肉の策でハンク・モブレーソニー・スティットに頼んだりした事もあったが、正式のメンバーになったジョージ・コールマンもどう見ても二流のテナーであり、マイルスもグループ・サウンドは諦め、専らフリー・ブローイングに徹していた。64年の初来日時はコールマンに代わってサム・リヴァースが加わっていた。マイルスが狙っていたテナーはあくまでウェイン・ショーターだったが、彼はジャズ・メッセンジャーズのメンバーだったので、退団を待つほかなかった。64年の秋にようやく夢がかない、ショーターを迎え入れることが出来た。その第一作は『ライブ・イン・ベルリン』だが、入ったばかりでまだショーターの作、編曲によるグループ・サウンドは生まれていない。
  マイルスは65年に『ESP』を録音するが、ここから新しいマイルスのモード演奏が始まる。ショーターを中心に、ハンコック、カーター、トニーが揃ったからだ。ショーターは、「ESP」、「アイリス」を書き、ハンコックは「リトル・ワン」を、カーターは「RJ」を、そしてカーターとマイルスの共作が「エイティ・ワン」を「ムード」、さらにマイルス作の「アジテーション」とオール・オリジナルで、全体の演奏はモード手法を使ったスマートで、ちょっとクールがかった演奏となっている。

 このメンバーによる最高傑作は『マイルス・スマイルズ』で、ジャケットの写真には珍しくマイルスの笑顔が使われているが、これだけのメンバーが揃えば、マイルスもにっこりとせざるを得ないだろう。ショーターは「オービッツ」、「ドロレス」、「フット・プリンツ」を書いているが、「フット・プリンツ」はショーターの快作で、彼の代表作の一つ。メロディも美しく、後に多くの人が演奏し、歌う人まで出てきた。マイルスも一曲「サークル」を書いているが、エディ・ハリスの名作「フリーダム・ジャズ・ダンス」の演奏が凄い。新主流派演奏の名にぴったりのモダンでスマートで、エキサイティングな内容。
  このメンバーでの演奏は自作、67年録音の『ソーラサー』で頂点に達する。ショーター作の「プリンス・オブ・ダークネス」は彼好みの黒魔術的な世界を持ったモード曲であり、他に「マスクアレロ」、「リンボ」、「ヴォネッタ」を書き、ハンコックが「ザ・ソーラサー」を書いている。リーダーはマイルスだが、グループのサウンドを決定づけていたのはショーターとハンコックである事は明らか。
  67,8年録音の『ネフェルティティ』もこのクインテットによるものだが、マイルスの曲は一つも無く、ショーター、ハンコック、トニーの曲で占められている。アルバム・タイトル曲はショーターの幻想的な曲だが、演奏そのものが作曲といったナンバーであり、ショーターのモーダルな作、編曲に縛られ過ぎていて、自由、闊達なジャズ本来の生命力の燃焼に乏しい感があり、少々息が詰まる。この辺りからマイルスとショーターの蜜月時代は終わりを告げ始める。むしろ、このアルバムではトニーが書いた「ハンド・ジャイヴ」の熱い躍動する演奏の方がジャジーだし、マイルスも楽しそうにブロウし、アドリブを展開する。
  モード手法も、現代音楽の12音技法と同じ様に、縛られ過ぎるとかえって自由さと柔軟性を失い、型にはまった束縛を受けてしまう。今日のジャズ・ミュージシャン達はモード手法も用いるが、従来のコード進行の転回によるアドリブとの併用を行っているケースが多い。


ー エレクトリックとフュージョンの70年代 ー

 大雑把に言って1970年代以降、ジャズはエレクトリック化し、フュージョン化した。実際には60年代末からそういった現象が見られ始め、マイルスを例にとれば、『マイルス・イン・ザ・スカイ』にエレクトリック・サウンドを導入したのが最初で、『イン・ア・サイレント・ウェイ』と『ビッチェス・ブリュー』でエレクトリック・ジャズが宣言されたと言える。ジャズのエレクトリック化が60年代から隆盛を極めてきた事と無関係では無いと思う。ロックの台頭でエレクトリック・サウンドが身近で親しみ易いものとなり、多くのジャズ・ファンも抵抗なくエレクトリック・サウンドを取り入れる様になったとも言える。ロックのビッグ・サウンドに対抗するためにも、エレクトリック・サウンドのどうにゅうは必然だったのかも知れない。マイルスはロックに負けないバンドなら幾つでも作ってみせると発言した。

 マイルスはこの種のジャズでは指導的な立場にあった一人であり、69年の『イン・ア・サイレント・ウェイ』にはチック・コリアジョー・ザヴィヌルウェイン・ショーター、トニー・ウィリアムズらが参加していて、その後この中からリターン・トゥ・フォーエヴァーウェザー・リポート、ライフタイムといったグループが生まれ、エレクトリック・ジャズは花盛りとなった。エレクトリック・ジャズで、上述のグループ以外にもう一人リーダーシップをとったのがハービー・ハンコックである。しかし、彼もマイルス・デイヴィス・グループの出身者であり、やはりマイルスの影響を受けた一人。
  フュージョンには一過性の愚作も多く、後世に残る作品は少ないが、マイルス・デイヴィスの一部作品,ウェザー・リポートと初期のチック・コリアリターン・トゥ・フォーエヴァージャコ・パストリアスの諸作だけは音楽的にも共感できるものが多く、新しいジャズとして成果を挙げていて評価したい。
  何故、フュージョンが出現したのだろう?それは当時ポップス界を席巻していたロックやソウル・ミュージックに対抗しようとしたからだと考えられる。又、レコード会社がレコードの売上増を狙い、ミュージシャンを叩きつけ、誘導した面も多分にあったと思われる。同時に、当時ジャズ界のスーパー・スターだったマイルスが電化、電子サウンドを導入し人気を得たのを見て、多くのミュージシャンが追従したとも言える。しかし、マイルスも70年代や晩年の演奏で真に共感出来るものは、牧歌的な『イン・ア・サイレント・ウェイ』、ストリート・ミュージックのエネルギーを吸い上げた『オン・ザ・コーナー』等一部の作品や演奏に過ぎない。
                                                    ー完ー




私の選んだ「マイルス・デイヴィス」名盤15枚

クールの誕生 Capitol T-762 1949.1.21/4.22 NY

モダン・ジャズ史上燦然と輝く金字塔アルバム。48年パーカー・コンボ在団時にあって、エクスタイン楽団時代から親交深かったタッド・ダメロンの紹介で、ギル・エヴァンスジェリー・マリガンジョン・ルイスらと『ロイヤル・ルースト』にスペシャル・バンドで出演したマイルス9重奏団は、キャピトルにその足跡を残すことが実現した。3回にわたって吹き込まれたこのアルバムで、マイルスはバップの伝統に立脚しつつも、ソロ、アンサンブル、そしてポリリズミックなサウンド作りなど、後々のモダン・ジャズ形成へ大きな寄与をなした様々なトライヤルを描いていった。

バグス・グルーブ Prestige LP-7109 1954.6.29/12.24 NY

有名な54年クリスマス・イブのセッションは、本アルバム(A面)と「マイルス・デイヴィス&モダン・ジャズ・ジャイアンツ」にわかれて収録されている。このセッションは「ウォーキン」の延線上にあるオールスター・ジャム・セッションだが、モンクの参加がこれをより有名にした。マイルス、ミルト、モンクのソロはいずれも絶品。そしてB面のマイルスとロリンズ+黄金リズム・セクションのセッションは、のちのマイルス・クインテットの雛形ともいえるハード・バップの好デイトとしてA面をしのいでいる。

ラウンド・アバウト・ミッドナイト CBS CS-8649 1956.10.27 NY
 マイルス初期の代表作というばかりかモダン・ジャズ史に燦然と輝く不朽の名盤。まさに“一家に一枚”に必携盤。当時マイルスはプレステッジ社と契約に縛られていたが、好条件を呈示してきたCBSとの間に55年、仮契約を結んだ。そして吹き込まれたのが本盤。オール・アメリカン・リズム・セクションと謳われたガーランド以下のリズム隊をバックに、センシティブなマイルスのホーンと、コルトレーンの噴出するソロのコントラストが新たなジャズを予感させる。モンクの名作<ラウンド・ミッドナイト>に“アバウト”を入れたタイトル、このしゃれっ気がジャズっぽい。

クッキン Prestige LP-7094 1956.10.26 NY

 4部作中で10月セッションのみに焦点を合わせた編集。マイルスのおはこ〈マイ・ファニー・ヴァレンタイン〉の初演が聴ける。64年モード奏法で再演されたCBS吹き込みの同曲と聴き比べてみると面白い。そこで性格判断。初演盤をより好む人は情熱家、ロマンチスト、素朴。再演盤の人は、クール、知的、キザ?かな。モードといえば〈ブルース・バイ・5〉には、後年のモード奏法の萌芽がみられ重要。急成長を遂げつつあるトレーンのブルースにおけるソロが実に破天荒。ところで、ヒューマン・タッチの素晴らしいジャケット・デザインだが、どっちからラッパを描いたかわかりますか?

マイルストーンズ CBS CL-1193 1958.3.9 NY

 モード時代突入を捉えたマイルス・コンボの代表作。“ニュー・バード”(パーカーの再来)と呼ばれたキャノンボールと、“酒と薬”の問題を契機に1年間バンドを離れていたコルトレーンの復帰の下、まさに史上最強の3菅編成コンボによる録音。さまざまな話題に事欠かぬ盤で、〈ジャズ・アヘッド〉では、クレジットはないが御大自身がピアノを弾いているようだし、録音日付も長い間誤って伝わっていた。〈ビリー・ボーイ〉はガーランド以下リズム隊のみの演奏。このようなトラックを設けることは、当時あまり例のないことだった。余裕のマイルス、か?

サムシン・エルス Blue Note BST-8042 1958.3.9 NY

 アルバムの表題はキャノンボール・アダレイのリーダー作となっているが、実質的なリーダーはマイルス。CBS専属だったマイルスは、他社でリーダー作を吹き込むわけにはいかなかった。フランスで「死刑台のエレベーター」を吹き込んで帰米した直後に吹き込まれたものだが、メンバーの顔ぶれの豪華さ以上に、シャンソンの名曲を一躍ジャズ・スタンダードにしてしまった〈枯葉〉におけるマイルスの名演はあまりにも有名。この1曲によって、このアルバムはモダン・ジャズ史上屈指の名盤としての評価を得たといってもいい。モード手法への転換の第一歩を示唆した作品。

カインド・オブ・ブルー CBS CS-8163 1959.3.2 NY

 エバンスやトレーンらと共に探求してきたモード奏法によるアドリブ展開の完成的作品で、60年代ジャズ・シーンをリードする先駆的役割をはたした代表作の1枚。ビル・エヴァンスが強力にバック・アップしており、当時既に彼はバンドを抜けていたにもかかわらず吹き込みに馳せ参じた。全5曲共、作曲者はマイルスとのクレジットだが、エヴァンスの楽理知識に基づき作曲された曲が多いらしい。たゆたうブルーなムードが全体をすっぽり覆い、聴き手を遠くに連れて行ってくれる。聴けば聴くほど、味が出てくるスルメのような盤。ジャケットを眺めていたらマイルスが弥勒菩薩にみえてくる。

スケッチ・オブ・スペイン CBS CS-8271 1959.11.20 NY

 マイルスとギルの共演は3作目となった本アルバムにおいて、その成果を最大限に発揮したといっていい。〈アランフェス〉及びファリアの「はかなき人生」からの〈ウィル・オ・ザ・ウィスプ〉というスペイン音楽の代表作にギルのオリジナル3曲を加えた演奏。ギルのオーケストレーションは、ホルンとチューバを加えたファンタジックなブラスに木管群特有の色彩感豊かなふくらみのあるトーンを加え、マイルスのソロとぜつみょうのサウンド・テクスチャーを生み出している。ジャズメンにもしばしば取り上げられている〈アランフェス〉だが、このマイルスとギルによる演奏が、今もって屈指の代表的名演。

マイ・ファニー・ヴァレンタイン CBS CS-9106 1964.2.12 NY

 これは「フォー&モア」と対をなすアルバムで、64年2月12日ニューヨーク市リンカーン・センターのフィルハーモニック・ホールにおけるチャリティー・コンサートのステージを録音したもの。全5曲いずれも過去に何度か吹き込まれているナンバーばかりであるが、フリー・ブローイングなマイルスのソロは、バラードを中心とした曲構成の中で新鮮な光輝を放っている。ミュートとオープンを使い分けるマイルスのフレージングが、独自の音世界を構築していく過程が、ものの見事に捉えられている。ハンコックのタッチも印象的。

フォー&モア CBS CS-9253 1964.2.12 NY

 「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」と同じ時の実況録音盤。ここで演奏されている6曲も、いずれも過去に吹き込まれたことのあるおなじみのナンバー。すでに結成して1年近くになるクインテットのグループ・コンビネーションの良さがここにきて成果を上げ、マイルスのソロも、かつてない白熱したフリー・ブローイングで圧倒される。1曲がミュート、他の5曲はオープンで、シャープな躍動感のあふれたプレイを展開。1曲目のコールマン、2曲目のトニーなどバックの好演も見逃せない。いずれにしてもインプロバイザーとしてのマイルスの真価が最高に発揮された作品の一つ。

マイルス・スマイルズ CBS CS-9401 1966.10.24 NY

 「ESP.]からほぼ1年9ヶ月のブランクを経て発表された作品。かつて50年代に一世を風靡したオリジナル・クインテットに匹敵するコンボとしての充実ぶりがいかんなく発揮されたアルバム。3曲がショーター、1曲がマイルスの作曲で、〈フリーダム・ジャズ・ダンス〉はエディ・ハリスの、〈ジンジャー・ブレッド・ボーイ〉はジミー・ヒースの作品。ジャズ・ロック調の〈ジンジャー・ブレッド・ボーイ〉などにおけるマイルス独自の解釈は、70年代を前に早くもマイルスのロック・イディオムに対する最も初期の方向づけという点でも興味深い。〈サークル〉におけるミュートでのバラード・プレイもまた出色ではある。

イン・ア・サイレント・ウェイ CBS CS−9875 1969.2.18 NY

 69年2月の録音だが、70年代ジャズのあり方を示唆し予言した演奏で、数あるマイルスのアルバムの中でも最も重要な1枚。マイルスとザビヌルのコラボレーションというべきアルバムで、特に注目すべき作品がザビヌル作のタイトル曲。この牧歌的電化サウンドの中にウェザー・リポートやリターン・トゥ・フォーエバーの原型を聴く事ができる。ショーター、ハンコック、チック、ザビヌル、マクラフリン、デイブ・ホランドトニー・ウィリアムスとマイルス・スクールが全員集合している点に刮目。ここから新しい70年代ジャズが生まれた。

ビッチェズ・ブリュー CBS GP-26 1969.8.19.20.21 NY

 「イン・ア・サイレント・ウェイ」はむしろザビヌルの楽想が強く打ち出されている点で重要であったが、その6ヶ月後の68年8月に録音されたアルバムには〈マイルス・ランズ・ザ・ブードゥー・ダウン〉他2曲に加わっているのみで、全編マイルス自身の音楽的方向が強く打ち出されている。したがって70年代におけるマイルス・ミュージックの原型がここにあるとみていい。アルバム・タイトルは魔女の作る酒といった意味であり、ほかにブードゥーとかファラオとかの題名があり、アフリカの野生と生命の躍動、神秘性といったものをジャズに導入し、複雑なリズムの強調とジャンルを超えた溶解を求めている。

オン・ザ・コーナー CBS KC-31906 1972.6.1,6 NY

 60年代末からのマイルスの音楽は、ポリリズミックな部分を強くおしすすめてきた感があるが、このアルバムでは彼のリズム重視の傾向が、それまでのどの作品よりも強く打ち出されている。ここに繰り広げられているリズムは、よりシンプルでダイナミックなものだが、マイルスはリズムのもつ重要性を復活させることによって、アフロ・アメリカン音楽の伝統に新たな光をあてている。その意味では、70年代以降のマイルスの方向がはっきり打ち出されたアルバムで、この時期の作品の中でも特に重要な意味を持つアルバム。リズムの饗宴ともいうべきトータルなサウンドに耳を傾けたい。

ゲット・アップ・ウイズ・イット CBSKG332361973.9.19&20 NY

録音年月日はさまざまだが、70年代前半のマイルスの音楽をいろいろな角度から捉えることのできる興味深いアルバム。〈ヒー・ラブド・ヒム・マッドリー〉は74年5月にこの世を去ったデューク・エリントンに捧げられた演奏で、アルバム中でも最大の聴きもの。30分を超える長いトラックで、前半マイルスはオルガンによってこの曲のムードを設定するが、その後に出る彼のミュート・プレイは、深い悲しみに彩られている。他のトラックでは、カリプソなどのラテン音楽やロックの要素を取り入れたナンバーが含まれているが、それらもまぎれもないマイルスの音楽として見事に消化されている。


〜ニュー・マイルス・ミュージックの功罪〜


  カムバック第1作「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」はとにもかくにもセンセーションを巻き起こした。感動と失望の声が交錯、またまた賛否両論の嵐が吹き荒れた。はたして「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」はいったい何を語ろうとしていたのか。かつてジャズの流れを大きく転換させたマイルスだが、今こそ70年代から81年復帰に至るマイルス・ミュージックの功罪を問う!


ー 人々はマイルスに何を求めたのか ー

 振り返ってみれば、1981年は80年代の始動に相応しいとは言い難いダイナミズムに欠けた平凡な1年ではあったかも知れないが、そうした中にあって、ことマイルスの再起はこの1年最大のトピックスでもあったというばかりでなく、ジャズにおける最も目覚しいイベントの一つでさえあった、といってもおかしくないような気がする。その意味では、ニュース・バリューのあるジャズのどんな出来事も、これに太刀打ちしうるものは何ひとつなかった、といっても過言ではないだろうか。ほかの連中は一体何をしていたのだと言いたくなる位、実りのない1年だったという感慨の方が深い。この時ばかりは、あのウェザー・リポートですら、マイルスの反響を前にして影の薄い存在にならざるを得なかったのだから。

確かに今思えば、あたかも帝王にぬかずく臣下の如く、突然目を醒ましたマイルスに血道をあげるジャズ・ジャーナリズムの子供じみた、あるいはいささか見識を欠いた奔走ぶりは、滑稽でさえあったが、約6年の沈黙を破ったレコードの吹込みから、クール・ジャズ祭出演や鳴物入りで開催された日本公演に至るまでのマイルスの動きとその周辺状況に目をやれば、それもあるいはいたし方なかったのではと思いたくなるほど、当時ジャズ界はスター不在に泣いていた。それはまた同時に、長い空白にもかかわらず、そしてウェザー・レポートのような存在があるにもかかわらず、マイルス信仰が決して死んでいなかったことも明らかにした。少なくともジャズ界がマイルスの復活によって大きな刺激を得たこと、またそれを通して久しぶりに活気に満ちたざわめきを甦らせたということだけは、いささかも否定のしようがない。しかし、マイルスがたった1人の力でジャズ界を救うことができるほど、当時のジャズ界は単純でもなければ、メスを振うのに生易しい状態にあるという訳でもなかった。マイルスが再起したというニュースが伝えられてまもなく、にわかに高まってきたマイルス待望の熱気の中で、こうしたことはむしろ、フュージョンとして喧伝され、大衆に一見もてはやされたように見える音楽が、実はジャズとしてのアイデンティティーを失い、従って創造的な発展が望めないような状態に陥っており、80年代に突入したこの頃にこそ何かが起こらなくてはいけないという、ある種危機感が突如ジャズ界にみなぎりはじめた証拠ではないか、と私が直感したのも決して故なきことではなかったと思う。

 あらゆる世界、あらゆる分野で、この頃ほど英雄の出現が待望されていた時代はなかった。ジャズとしても例外ではなかった。人々がマイルスに何かを求めて殺到したとしても、実は無理もなかったのではないか。病で身を退くまでの過去30年ほどにわたって、マイルスはジャズ界に君臨してきた、まさに不死身のヒーローであり、その間一度も帝王の椅子を譲ったことがないという、史上無二の驚くべき存在だったからだ。それに引き換え、70年代以降、入れかわり立ちかわり現れては人気者となったミュージシャン達は、1人として決して真のヒーローたりえなかった。
彼らはちょっとしたお祭り騒ぎの渦中で持て囃されたというに過ぎない。時代の寵児となったにも関わらず、時代に対して謙虚さを欠く彼らの態度からは、80年代に相応しいクリエイティブな音楽などはとても望めないように思われて仕方がない。当時このことに気がついていたミュージシャンは、多分ごく少数に過ぎなかっただろう。

このように考えてくれば、ある意味で過酷に過ぎるとはいえ、再起したばかりのマイルスに何かを求める多くの熱烈な声が、多くの人々の現状不満やジャズの存亡にかかわる危機感とも重なりあいながら、英雄待望論に発展していくということは充分に考えられることである。見方を変えるなら、マイルス待望論には、創造性や闘争心を欠いたジャズの現状に対するやり場のない憤懣、70年代の錯綜的状況を総点検し、これを含めた過去を想像力豊かに統括しながら創造的な発展へと導いていくのが80年代の作業だとする認識、あるいはジャズに対する根本的な危機感、さらにはマイルスへの熱烈なラブ・コール、それをひっくるめた期待等が、一緒になって絡みあっているということである。
 マイルスの第一線復帰にからむさまざまな情報がもたらしたにぎにぎしい熱狂と興奮は、ジャーナリズムの煽動戦術にのせられた面が多分にあったとはいえ、それを割り引いてもなお、マイルスに何かを求め、期待する声が想像以上に多かった事実を物語るものだろうが、期待する声は実はさまざまであり、その奥はきわめて複雑だったということになる。


ー カムバック第1作は何を語りかけたか ー

 マイルスの再起第1作に対する一般の評価、及び日本公演についての反応がまちまちだったのは当然であり、さして驚くにはあたらない。ある人は“さすがマイルス!”と驚喜し、またある人はいくばくかの感傷をもって“グッバイ・マイルス!”を告げた。マイルスを支持する人たちの中には、マイルスの存在の大きさ、すなわち演奏の中心にマイルスがいるというだけで音楽が生まれ変わったようになることを説き、従ってマイルスの偉大さが浮かび上ってくるのだという人がいる。私はそれを否定しない。むしろある意味でまったくその通りだと思う。しかしそれは演奏家としてのマイルス像の一端であり、彼の音楽そのものを語っている訳ではない。新作「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」でも、彼の大きな存在感を十分に伺うことができたし、来日ステージでもそうだった。新作のアルバムについていえば、私は一方で驚喜しながら、他方で失望感を禁じえなかった。10月4日、東京での来日ステージにおいても、私の態度は基本的には新作の評価と軌を一にするものだった。

その一方で、ふと思うとマイルスがいる。それだけで十分なのだ、と。マイルスは多分、主のいない帝王の椅子に再び戻ったのだ。たとえマイルスが以後たいした音楽をしないとしても、マイルスがそこにいるというだけで、マイルスを円心軸にしたジャズは再び勢いよく回転するような気がした。
 だが、その前に、ここで明らかにしておかなければならない事がある。マイルスの再起に心から拍手を送りながら、彼の音楽の一体何に失望せざるを得なかったかについて、明らかにする必要がある。6年の沈黙を破って彼が世に問うたあの再起第1作に、一方で喜びを感じつつも、なぜその一方で留保をつけなければならなかったのか・・・。

 簡単にいえば、70年代音楽、というよりいわゆるフュージョンとかクロスオーバーの名で大衆の嗜好品となった音楽における、マイルス・ミュージックの功罪についてである。これらの音楽にとって、マイルスが60年代の終わり頃にいくつかのアルバムで示唆した方向性、方法論、サウンド等が、いかに大きなよりどころとなったかは、もはや言い尽くされている。例えば70年代音楽の方向を決定づけたアルバムとして、誰もが真っ先に挙げるのは「ビッチェズ・ブリュー」であるが、70年代以降から今日にかけてジャズあるいはフュージョン界を主導してきたミュージシャンの大半が、この「ビッチェズ・ブリュー」と「イン・ア・サイレント・ウェイ」というマイルスの示唆深い両アルバムのセッションに参加していることを考えれば、マイルス・デイヴィスこそは疑いもなく、70年代以降におけるジャズの発火点であったことが容易に理解される。すなわち、マイルスは発火点で、そこから生まれた2枚のアルバムこそは、まさに直接的な起爆剤にほかならなかったということになる。

ここで2枚のアルバムを同列においたのには訳がある。というのは、70年代ジャズの最大の流れを生み出した作品という時、「ビッチェズ・ブリュー」を挙げるのはもはや今日では常識になってしまったが、当節のジャズにおけるメソッドと演奏スタイルを一つの視座にして考えるなら、むしろ「イン・ア・サイレント・ウェイ」の方がより示唆に富んだアルバムではないか、と思われるからである。最も作品としてどちらかが上かという議論は別として、少なくとも《マイルス=70(80)年代ジャズ》の相関性を考えるならば、両アルバムを同列において論じるべきだというのが、私の率直な持論です。


ー 「BITCHES BREW」と「IN A SILENT WAY」の可能性と問題 ー

 「ビッチェズ・ブリュー」の素晴らしい点は、革新的なことが単なる新しい要素や実験的試みという段階でとどまっておらず、様式的にもサウンド的にもバランスがとれており、マイルスの単純化作業を象徴するように無駄や饒舌が見られないばかりか、全てのものが居心地よくまざりあって、しかもなお一つのすっきりした新しい統合形として提出されているということだ。これからのジャズはこういう風にして演奏するんだよ、とあたかもマイルスがほのめかしているように、70年代ジャズのコンセプション、70年代ジャズのサウンドや演奏様式等のあり方を一つの具体的な形で示唆した、まさにまぎれもないサンプルになっている。

しかし、例をひとつ引き合いに出せば、マイルスとウエイン・ショーターのユニゾンによる催眠的なメロディック・ラインが、際限なく繰り返されてはたゆとうように浮遊し、消えたと思うとまた現われ、夢幼的な永続性を導き出していく「ネフェルティティ」(1967年)のような例を説明するには、「ビッチェズ・ブリュー」はあまりにも完成された演奏作品といわなければならない。「ビッチェズ・ブリュー」の場合、マイルスが過去2度にわたってその後のモダン・ジャズを支配する革新を果たした2枚の先駆的アルバム、49年の「クールの誕生」及び59年の「カインド・オブ・ブルー」とは違って、さらに発展していく可能性をもった芽は決して一つではなく、むしろさまざまな局面を秘めていたと思う。そこには物事を決して完結させないマイルス流のやり方が示されていて興味深い。だが、うっかりすると発展させる緒がたった一つしかないと思えるほど、すなわち音楽を発展させるレールがこのアルバムによってはっきりしかれたと思えるほどに、このアルバムの演奏には完成された美しさ、トータル・サウンドの魅惑的な輝きがある。

 この時代のマイルスのリズム概念はちょうどインド音楽のそれに似ていて、いわば小節線がない。解りやすくいえば、4/4拍子の概念から離れたリズム・コンセプトで成り立っている。周期のない1拍単位の進行、あるいはロック・リズムに基づいた半拍単位の進行がリズムの流れになり、リズム概念の中枢におかれて全体のパルスを生み出すもとになっている。その考え方、及び形が、実はあの「ネフェルティティ」のメロディック・ラインに活用され、リズムと一体になって催眠効果をもたらしているということに、私は後に気が付いた。

こうしたマイルスの一連の試みと「ビッチェズ・ブリュー」の間に介在するアルバムが、すなわち「イン・ア・サイレント・ウェイ」なのである。ここではサウンド全体が絶えずたゆとうように流れ、さまざまな形でアクセントをつけることによって、無限といいたいほどのサウンド変化、テクスチャーやカラーの変化が達成されている。そこに、コードではなくスケールを基盤とした、クロマティックに変化するマイルスのソロが加わると、サウンドが妖しく揺れ動くかのように、まるで生き物みたいに忍び寄ってくる。従来の4ビート・ジャズにあった区切りや句読点はどこにもない。これはトータル・サウンドを、他の概念(ロック・リズム、エレクトロニクス、インド音楽、ブラジル音楽における打楽器用法等々)を用いてどのように新しく生み出すかという、より具体的な提示であった。「ビッチェズ・ブリュー」のように完成されてはいないが、ここにはスリリングな新しい可能性と楽しい未来がある。未完成から完成への収斂の凝縮された姿を、私はこの両アルバムに見る思いがする。今日のジャズ/フュージョンを語るとき、「ビッチェズ・ブリュー」も無論だが、「イン・ア・サイレント・ウェイ」をはずすわけにはいかないのは、実はこういう意味なのです。


ー 解答を用意するのがマイルスの運命 ー

 従って、問題は決して単純ではない。70年代以降のジャズ/フュージョンは確かにマイルスを発火点にしたが、後続のミュージシャン達が2枚のアルバムに象徴されるマイルス・ミュージックのどの局面を出発点にしたかによって、それぞれに異なった様相をあらわすに至ったからである。「ビッチェズ・ブリュー」で説明するなら、このアルバムにおける完成された美がもっていた様々な面は、個別に選択され、その多くはマイルスの意図とは無関係に展開されていった、という事。それが混淆しあい、錯綜しあったところに、70年代フュージョンの混乱と、マイルスが決して失わなかった“呪術性”を欠如させたような不毛の状態とを生む素因があった、といっていいかも知れない。

それでもマイルスがまだ健在であるうちはよかった。たとえマイルスの表面だけコピーしてその本質から離れてしまった音楽に彼らがうつつを抜かすようなことがあっても、マイルスの勢力圏内にあったミュージシャン達は、マイルスという柱を中心に、直接にマイルス体験をはたして大きな影響を受けた70年代ジャズ/フュージョンの一群の推進者達のリーダーシップのもとに、ある意味で心理的スクラムを組んでいたといってもよく、彼らはいつでもマイルスのもとに還る用意ができていたからだ。マイルスの磁石がジャズ/フュージョン界全体に及んでいた、といってもいい。

ところが、マイルスが病に倒れて活動を休止したとたん、状勢に大きな変化が起こった。日本に3度目の来日を果たした直後の事で、ジャズ/フュージョンの急激な膨張化、あるいは肥大化に拍車をかけたマイルスの活動停止は、彼が斯界の支柱的存在だっただけに、概念の大きな混乱をもたらした。ジャズ/フュージョンにおけるマイルスの功罪を云々しなければならない、その決定的な岐路を彼の活動停止の瞬間に見ることは、それゆえ決して誤りとはならないはずである。1975年をマイルスの功罪の38度線と私が考えるのも、実はそういう理由に基づいての事だ。私がこのブログであえて書いているのも、マイルスの功の部分はしばしば語られ(書かれ)、折につけ引き合いに出されて、もはや歴史の定説にすらなりつつあるのに反して、罪の部分は全くといっていいくらい語られた(書かれた)ことがなかったにほかならない。帝王に対する遠慮があったのか、あるいはそれほどまでにマイルスは絶対的存在だったのか。無論マイルスがジャズの発展にあって格別の存在であることは論をまたないし、私としてもマイルス信仰が全くないというわけではない。けれども、マイルスはキリストでも釈迦でもない。マイルスの罪は罪として認めた上で、ジャズ/フュージョンの混乱とそれがどう関わっているかを明らかにする必要があるのではないかと思う。

 例えばフュージョン大全盛だった80年代の状況を見てみればよい。この音楽はもともとジャズを核としながらも、他の主だったポップ・ミュージックを抱きこんで、見た目にはおいしそうだが中身の薄い、単なるバックグラウンド・ミュージック、イージー・リスニング・ミュージックとしかいえない音楽に化してしまった。もちろん全部がそうだというわけではなく、全般的な状況をさしていっているわけだが、こうした状況に拍車がかけられたのは70年代半ば前後、とりわけマイルスの活動停止を境にして以降のことであったという事実を考えれば、マイルスの責任は決して軽くないというのが私の見方である。この混乱状況をつくりだした張本人がマイルスだというのは酷に過ぎるが、少なくとも彼が身を隠した75年以降、彼を中心とした緊張関係が崩れだし、未完成の雑多な音楽がそのとたんマイルスの手を離れて底の浅いまま一人歩きをしてしまった裏に、マイルスの活動停止があったことは認めざるをえない。というのは、そもそもマイルスがこうしたジャズ状況を導き出した発火点だった、という厳粛な認識があるからだ。最大の罪は、「ビッチェズ・ブリュー」の成果をいったん反古にして新しい展開に踏み出したマイルスが、仕事を途中にしたままジャズ界から姿を消し、5年余の空白を招いてしまったことだ。マイルスにとって不運だったということになろうが、それによって、一つは自らがつくった緊張関係を崩壊させる結果を招いてしまった事。もう一つは自らの作業を挫折させた事。この二点を指摘する事ができる。マイルス主導のジャズ/フュージョン全体における発展が未完のまま一頓挫したというばかりでなく、流れが拡散してしまい、しかも才能のないスターが担ぎ出されて、商業主義に支配された安易な状況がつくりだされてしまった。この状況はコルトレーンの死直後のそれとも似通っている。

八方美人的な広がりと愛想のよさで急速に大衆の消耗嗜好品となったフュージョン・ミュージックに対して、マイルスは大きな責任をもっていると私が常々考えてきたのも、その偉大な創造性と大きな影響力にもかかわらず、マイルスには功は無論として罪もあるのだという認識があったからに他ならない。それについてマイルスを責めるつもりはない。確かにそれはやむを得ぬ事情によるものだったからだ。但し、長い沈黙を破る時には、こうした様々な事項に対しての答をマイルスは用意する義務がある、というのが私の考え方だった。もしそれが80年代の安易な状況に対する的確な評価になっているのと同時に、ジャズ/フュージョンのあり方や可能性を示唆する内容になっていれば、マイルスはある意味で責任を果たしたことになるだろう。マイルスほどの男なら、きっとそれを明らかにしてくれるはずだ。一抹の不安はあったが、それはささやかな、しかし大きな意味のある期待でもあった。そんな中でマイルスは再起した。

その影響力については冒頭で多少ふれているし、レコード評ではないこのブログの中で「ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン」の出来を云々する理由もない。問題は、このアルバムが厳しい解答になっていたかどうかだ。結論から言えば、マイルスを中心とした緊張関係は少しずつ恢復するだろうが、それはあくまでも心理的なものであって、音楽的に、あるいは方法論的に、このアルバムが「ビッチェズ・ブリュー」や「イン・ア・サイレント・ウェイ」のような重さや意味の深さをもっているかとなると、いささか首を捻らざるをえない。あの両アルバムにあったさまざまな局面から、マイルスはリズムとエレクトロニクスの問題を選んで、それを軸に新しい探究に踏み出したはずであったが、それもこの作品では6年の空白後の解答というにはやや中途半端なレベルで終ったままになっている。現実の問題として、そのハッピー・サウンドにもかかわらず、やや焦点を欠いていたという点だけは指摘しておかなければならない。一方にウェザー・レポートのような優れた例があるかと思えば、その一方にはファッション化したサウンドの、殆ど見分けもつかないほどに類型化された羅列もあり、流行るのも早ければ廃れるのも早いこうした多様なサウンドの華麗な混沌を目の前にして、そういう状況やフュージョン音楽自身に対する優れた批評文となるような、あわせて次代に対する大きな示唆となるべき解答を、マイルスはできるだけ早く整えなければならなかった。それは、帝王マイルス・デイヴィスに与えられた過酷な運命ではなかったろうか。

ー完ー

〜常にジャズの最先端を創り続けた男〜 |

 「俺の音楽をジャズと呼ぶな!」
彼は力強く、そう言い放ったことがあるという。
トランペット奏者にして稀代のサウンド・クリエーター、マイルス・デイヴィス
常に前進と変遷を続けた、文字通りのカリスマ。
従来のジャズの先を目指した彼の動きはまた、ジャズの可能性を開拓し、枠を広げることにもつながった。
「ジャズ界の帝王」、「ジャズ界のピカソ」、「ソーラサー(魔術師)」・・・
さまざまなフレーズで形容されたマイルス。その魔力に、今、あらためて迫る。

マイルス・デイヴィスに関して、様々な書籍・HP・ブログ等の書やコメントが既に山のようにあるが、ここでは私なりに違った角度から切り込んで迫ってみたい!


ー 今年の9月28日で18回目の命日を迎える、カリスマ・トランペッターの生涯 ー

マイルス・デイヴィス(本名マイルス・デューイ・デイヴィス3世)は1926年5月26日、イリノイ州アルトンに生まれた。姉はピアノを習い、母はヴァイオリンを弾いた。父親は歯科医で広大な土地を持っていたというから、みごとに「上流」なアフリカ系アメリカ人一家であった、といっていいだろう。幼少の頃はフットボール、ボクシング、水泳、野球に熱中したが、やがてラジオから流れるジャズに夢中になった。トランペットを吹き始めたのは13歳のとき。2年後にはプロ入りを果たした。そして44年8月、ジュリアード音楽院で学ぶという目的(口実)でニューヨークに進出。しかし学校へはほとんど行かず、ジャズ漬けの日々を送ることになる。

 当時のマイルスを最も魅了したひとりがサックス奏者のチャーリー・パーカー。その圧倒的なスピード感と鋼のような音色で繰り広げられる即興絵巻は、まさしくジャズの先端を行くものであった。マイルスは神出鬼没のパーカーを追い求めては学業をそっちのけでマンハッタンをうろつき回り、45年秋、遂に彼のクインテット(5人編成のバンド)に参加する幸運に恵まれる。マイルスのゆったりとした、清水がゆったりと流れていくかのようなトランペット・プレイはパーカーの“刹那”と見事なコントラストを描いた。パーカーもそこを狙ってマイルスと組んだのかもしれないが、一方でこのサックス奏者はアルコール、ドラッグ、女性に耽溺しており、常にお金を必要とする状態だったとも伝えられ、あげくのはてにはマイルスのアパートに転がり込んで共同生活まで送っている。地方都市から来たお坊ちゃんのポケットマネーがいかほどパーカーの懐に消えたかは定かではないけれど、若きマイルスにとって、それは授業料にも等しいものであったろう。パーカーとともに演奏することでマイルスのプレイは表現の幅を広げ、この“ユニークなサウンドを持った若手トランペット奏者”の存在は急速にジャズ界に知れ渡り始めた。


ー 月と太陽のように巡る「ホット」と「クール」 ー

48年、マイルスはパーカーの許を離れる。彼の新天地は、よりアレンジ(編曲)を重視したサウンドだった。編曲家ギル・エヴァンスとの出会いも、そんなマイルスの意向に拍車をかけたに違いない。ノネット(9人編成)による静謐にして野心的なサウンドの数々は49〜50年に録音された『クールの誕生』というアルバムで聴くことができる。しかし、マイルスは決して“ソフト&スタティック”路線のみに心を砕いていたわけではなかった。49年春、フランスで録音した『パリ・フェスティヴァル・インターナショナル』では、まるで即興の化身がとりついたような、燃え上がらんばかりのトランペット・プレイで圧倒する。クールとホット。これは月と太陽のように、絶えずマイルスの中をめぐりめぐっている。余談だが、このパリ滞在中にはジュリエット・グレコとのロマンスもあった。「サンジェルマン・デ・プレのミューズ」と呼ばれた美貌の若手シンガーと、限りない未来を持ったジャズ・トランペット奏者はたちまち恋に落ちた。マイルスがどれほどグレコに恋焦がれていたかは『マイルス・デイヴィス自叙伝』を読めば、たちどころにわかる。

グレコへの思いを胸にニューヨークに戻ったマイルスを待ちかまえていたのはドラッグの泥沼であった。が、マイルスは意志のひとでもある。54年にはジャズ界に復帰し、『ウォーキン』『バグス・グルーヴ』を残した。又56年夏には「ニューポート・ジャズ祭」に登場。この時のパフォーマンスが喝采を博し、同年秋、全米最大のレコード会社であるコロムビアと契約を結んだ。20代の黒人ジャズ・ミュージシャンとしては型破りの快挙である。マイルスのカリスマ性、ポップ性が、すでにこの時点で会社側にはお見通しだったのだろうか。

 販路に恵まれた大会社からレコードが出るということはすなわち、より多くの聴き手に自分の音を届けられるということをも意味する。マイルスのサウンドは各国のリスナーやファンの心を動かした。57年にはルイ・マル監督のサスペンス映画『死刑台のエレベーター』のサウンドトラックを担当、孤独を絵に描いたようなトランペットの音色で物語をドラマティックに彩った。


ー マイルスの歩んだ後に新しい「ジャズの道」ができた ー

この時期、マイルスは「モード」(旋法)を基にした音作りを中心に考えていた。恩師パーカーの取り組んでいた“ビ・パップ”がめまぐるしい「コード」(和音)のながれのうえでいかに自己表現するかに集中した障害物競走だとすれば、モード・ジャズに与えられているのはただ、だだっぴろい空間だけ。そこで跳ぶのも走るのも駆け回るのも寝るのも自由というわけだ。しかしそこはマイルス、常に“制御の目”を忘れない。59年の『カインド・オブ・ブルー』は、開放感と、尋常ではない緊張感がせめぎあう奥深い1枚。マイルスは無論、こんなに神妙かつ大胆なビル・エヴァンス(p)やジョン・コルトレーン(ts)も、ほかの作品では聞くことができない。

盟友ギル・エヴァンスとのコラボレーションも充実の一途を辿っている。59年の『スケッチ・オブ・スペイン』ではクラシック作曲家のロドリーゴがギター用に書いた「アランフェス協奏曲」を、まるでブルースのように吹奏。62年の『クワイエット・ナイツ』では、話題になりはじめたばかりのボサ・ノヴァにいち早く取り組んでいる。このあたりのマイルスのアルバム・ジャケットには、共通したロゴ(トレードマーク)が使われている。トランペットを吹くマイルスの姿を横から捉え、簡略化した図柄。いまではロックはおろか、アイドル歌手の売出しにも不可欠となった感があるロゴだが、それを効果的に活用したレコード会社及び音楽家コロムビアとマイルスが嚆矢かもしれない。

 新世代のミュージシャンと組むことで更なる活性化を図ろうとしたのか、63年になるとハービー・ハンコック(p)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds)がバンドに参加。64年秋からはウェイン・ショーター(sax)が参加。彼らの自作曲を積極的に取り上げながら、マイルス・ミュージックは更に激しく前進する。リズム・セクションが自在に動き回るその上で、管楽器がニュアンスを変えたフレーズを何度も繰り返して、聴き手を一種の睡眠状態にいざなう67年録音『ネフェルティティ』は、“メロディ=主体、リズム=伴奏”という、それまでのジャズにあった暗黙の概念を覆す1曲であったと断言できる。

新世代のミュージシャンと組むことで更なる活性化を図ろうとしたのか、63年になるとハービー・ハンコック(p)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds)がバンドに参加。64年秋からはウェイン・ショーター(sax)が参加。彼らの自作曲を積極的に取り上げながら、マイルス・ミュージックは更に激しく前進する。リズム・セクションが自在に動き回るその上で、管楽器がニュアンスを変えたフレーズを何度も繰り返して、聴き手を一種の睡眠状態にいざなう67年録音『ネフェルティティ』は、“メロディ=主体、リズム=伴奏”という、それまでのジャズにあった暗黙の概念を覆す1曲であったと断言できる。

  アコーステック・ジャズの行きつく先が、マイルスには見えてしまったのだろうか。外に目を移せばロックやソウル・ミュージックがたまらなくエキサイティングに輝いていた。ビートルズが、ジミ・ヘンドリックスが、ジェームス・ブラウンが、重量級の音で若者を煽っていた。かねてから、より多くのリスナーに自分の世界を届けたいと思っていたマイルスが、この動向に無関心でいられるわけがない。いくらジャズ界の大物であっても、彼の作品が社会現象視されることは一度もなかった。マイルスはバンド編成にロックやソウルで使われるような、エレクトリック楽器を徐々に取り入れ始めた。しかし演奏を甘口にも売れ線にすることなく、巷のヒット曲をカヴァーすることもなかったところに強いプライドが感じられる。

サウンドの“電化”を受けて1曲あたりの時間は長大化し、時にプロデューサーのテオ・マセロが演奏にさまざまな編集を加えた。69年の『イン・ア・サイレント・ウェイ』と『ビッチェズ・ブリュー』は、初期エレクトリック・マイルスが持つ静と動を伝える甲乙つけがたい傑作。70年にはキース・ジャレットチック・コリアの電子キーボードを加えたバンドでワイト島のロック・フェスティヴァルや、“ロックの殿堂”と呼ばれたライブ・ハウス「フィルモア」に出演。72年の『オン・ザ・コーナー』では、タブラなどインドの楽器をも編成に加えながら、電気操作を加えたトランペットを高らかに響かせた。


ー 「伝説の男」,奇跡の復活 ウイ・ウォント・マイルス! ー

 75年9月、セントラル・パークのコンサートを最後にマイルスは活動を休止する。その間のことは『自叙伝』にも触れられているが、どうやら世捨て人同然の毎日だったようだ。しかし音楽の神が彼を放っておくわけがない。81年、マイルスはついに復活。10月には約6年ぶりに来日し、感動的なステージを披露している。

 カムバック以降の彼は「伝説の男」「奇跡の男」としてのイメージを愛でつつ音楽を続けていた、と書くと的外れだろうか・・・
この件については後に改めて書くことにする。

多くの人にリスペクトされ、関心を呼び、コンサート・ホールやスタジアムに詰めかけた観衆の視線を一身に集めるスター(鮮やかこのうえないファッションに身を包んだ)は、間違いなく時代が求めたヒーローであった、と私は当時のライブに足を運んだ回想やアルバムに触れるたびに思う。84年にはテオ・マセロとの四半世紀にわたる連携に終止符を打った。このあたりからシンディ・ローパーマイケル・ジャクソンの持ち歌がライブの定番レパートリーとなり、テレビや映画に出演することも増えた。マイルスとファンの距離が、ぐっと近くなった。

 91年9月28日、サンタモニカの病院でマイルスは歩みを止めた。最後のスタジオ・アルバムは、ラップを大きくフィーチャーした『ドゥー・バップ』。彼は最後まで“いま”に賭けていた。

ー完ー